17歳の君と、17歳だった僕へ

17歳のあの頃、こんな風に考えることができていれば・・・。自分と、自分と同じような思いを抱えた人へ向けたブログです。

ストックからフローへ

さきほどから頭の中を、ある考えが巡っている。その考えを実践する意味でもその考えを書いておく。

 

きっかけは本屋に売っていた『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』という本を立ち読みしたことだった。

 

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

 

 

モノを持たない生活を志向する人が増えているようで、こういった類の本を数年前からよく見かけるようになった。僕自身も個人的なある体験をきっかけにして、部屋にあったガラクタや本、服、家具などを大量に処分した経験がある。数ヶ月かけて片付けが終わったあと、部屋の中を風が通っていった瞬間は僕の人生の中で最高のものの一つだ。

 

空っぽになった部屋に身を浸しながら僕は興奮していた。どうやっても生きる気力が湧いてこなかった僕に、身体の内側からエネルギーが湧いてでてきて、いろいろなことにチャレンジしたくなったのだ。

 

実際、僕はこの片付けのあと、様々なスポーツやイベント、飲み会に参加するようになった。そうやって人生が好転して今も幸せに生きているならめでたしめでたしなのだが、僕の人生を司っている運命の神様はそれほど甘くはなかった。

 

ある重大な勘違い

 

僕はモノを片付けることによって起こった変化について、思い違いをしていた。

 

僕はこう考えていた。

 

「モノが少なくなったことによって、雑多な視覚情報にさらされずに済む。挑戦して挫折した英語、経済学、歴史、哲学、宗教の本を常に目にして気が散るのを防ぐことができる。このことによって、今まで無駄遣いしていたエネルギーを集中させることができるのだ。人間関係や仕事も同様で、付き合う人間ややらなければいけない仕事を可能な限り減らし、自分にとって大切なものだけを残すことによって、目の前の仕事に集中しパフォーマンスを向上させることができる」

 

この考え方を極端に実行すると、自分が付き合う必要がないと判断した人間を無視するようになり、やらなくてよいと判断した仕事をしなくなる。

 

僕はこのようなスタンスで数年間生きてきたわけだが、心の片隅でいつも釈然としない想いを抱えていた。

 

「人生ってこんなもんでいいんだろうか。『この人と付き合いたくないな』と思いながら、表面上会話をあわせて無駄に疲れていたときの方が、人間らしかったような気がする」

 

フローの哲学

 

断捨離をうたった類の本を読んでそれを実行し、僕と同じような想いをもつにいたった人は考えを少し変えてみてはどうだろうか。

 

つまり、モノやガラクタを捨てて整理整頓するのは結構だが、同じことを人間関係や仕事に直接適用しようとしてもうまくいかない、ということだ。

 

僕と同じ勘違いに陥るのはやめよう。

 

部屋がスッキリ片付くことによって起こった現象は、余白が増加し、多くのモノがフローできる状態になったということだ。これが人間に幸福感をもたらし、身体の内からエネルギーを湧き出させる。

 

つまっていた水路のゴミを取り除いたことによって、水が勢いよく流れ出すことをイメージしてもらえればいいだろう。

 

話を具体的にする。例えば人間関係について。断捨離を人間関係に適用し、自分にとって都合の悪い人間を人間関係から排除し、自分の好きな人とだけ付き合うのはよくない。部屋を片付けることによって起こった現象は、多くのモノがフロー、流動できる状態になったということだ。だから、人間関係について断捨離を適用するのであれば、多くの、そして質の高い人間がフロー(流動)していくにはどうすればよいか、という風に考えなければならない。

 

そのために実行することは、自分にとって都合の悪い人間との付き合いをやめることだけではなく、多くの、多様で、質の高い人たちとつながりができ、しかも付き合いが続くための工夫である。この膨大な人間のフローは人生に良い変化をもたらすに違いない。

 

次に仕事。面倒な仕事だから、要領よく切り抜けようとか人に押し付けようなどと考えてはならない。より多くの、多様で、質の高い仕事が自分自身を通過していくためにはどうすればいいのか、と考えなければならない。

 

こういう風に考え始めると、「人からお願いされた面倒な仕事だけどやってみる。その代わり、自分が困ったときにはその人に仕事をお願いしてみる」という発想をするようになる。

 

僕が考えるにこれが断捨離やミニマリストの志向するところの正しい捉え方だ。

 

情報との付き合い方

 

インターネットや本との付き合い方も考える必要がある。僕は今まで、インターネットや本から知識を取得することを考えていた。そうして蓄えられた知識が長い年月を経て発酵し、他の人にはできない多様なものの考え方を可能にしてくれる、そう考えていた。

 

しかし、大切なのはストックすることではない。あくまでもフローさせることである。大量の、多様で、質の高い情報をフローさせるにはどうすればよいか、と考えることが大切だ。

 

そのために必要なのが、アウトプットである。このアウトプットも、TEDのようなプレゼンテーションやピュリッツァー賞を受賞するような本だけをイメージしてはいけない。質の高いアウトプットを意識してしまうと、アウトプットをすることに躊躇するようになるからだ。

 

イメージすべきは、「適切なごみ捨て」である。

 

自分の頭の中にある知識やアイデアをとりあえず出してしまう。言葉にしてもいいし、カタチにしてもいいだろう。そうすることによって、頭の中を空っぽにする。そうして、次の情報が流れやすい状態をつくるのだ。

 

この「適切なごみ捨て」をするために効果的なのは人に話したりすることだが、自分の知識やアイデアを話すに足る人物が常に身近にいることは期待できない。相手も何の脈絡もないことをいきなり話されて迷惑に思うことだろう。

 

日記やブログに書き殴り、そのままさっぱり忘れるような感じがいいかと思う。

 

お金の使い方

お金の使い方も同じように考えたほうがいいと思う。そう考えるとケチは多大な害悪を引き起こすだろうことが想像つく。ケチは決してお金のフローを発生させないからだ。お金がどんよりと溜まって濁っていく様子をイメージすることができる。

 

そうではなくて、可愛い後輩におごってみたり、自分がどうしても欲しかったものを買ってみたり、自分の行きたかった国に旅行してみたりする。お金はなくなってしまうが、お金を効果的に使った結果が次のお金をきっと呼び込んでくれることだろう。

 

 

以上はあくまでも僕の個人的な考えである。しかもこれから実践しようとしている考え方だ。しかし、このストックからフローへ、という観点に立てたことによって、僕の中身はかなりスッキリし、元気が出てきたのである。

 

これを読んだ人の一助になればいいと思う。

そのへんに生えてる木とか、歩いてる野良猫について

忘れないうちに書いておこう。

 

僕にはある呪いがかけられている。もしかしたら、自分でかけたのかもしれない。両方かもしれない。今となっては確認しようがない。

 

どんな呪いかというと、「僕が今いる場所は僕が本来いるべき場所ではない」という呪いである。この呪いは僕を取り巻いている環境を否定し、僕を取り巻く人間を否定するということをし、そして自分自身を否定するということをする。そして、これらが苦しさを生む。

 

どうしてこんな呪いがかかっているのだろう。

 

自分なりに考えてみた。

 

僕がまだかなり幼かったころ。僕は僕を取り巻く環境に耐えかねたのだろう。耐え抜く強さも戦う強さも持っていなかったし、逃げる場所もなかった。そこで、自分なりに処方箋を生み出した。自分を守るために周囲の環境や人間を否定したのだ。

 

「自分が今いる場所は僕が本来いるべき場所ではない。僕は周囲の人間よりもずっと優秀な人間だ。僕のような優秀な人間がいるべき場所は他にある。今はしょうがないから我慢するが、いつの日か僕は僕が本来いるべき場所にたどり着く」

 

(僕の身近にいた人たちも、どうやら同じ処方箋を生み出したようだ。もしかしたら、僕は処方箋を受け継いだだけかもしれない。)

 

僕は周囲の人間よりも自分が優秀であること、自分が本来いるべき場所はここではなくもっと別の場所であるということの証拠を探し始める。

 

学校の成績、読んでいる本とその量、みたことのある映画、興味をひかれた美術作品、着る服、身につけるアクセサリー、英語力。こういう証拠を自分の中で並べて、僕は安心していた。安心する際の大事なポイントは、周囲の人間は持っていなかったり気づいていなかったり、あるレベルに到達できていないということ。

 

「やっぱり僕はここにいるような人間じゃないんだ。」

 

もちろん、僕は「周囲の人間よりも常に優秀」ではないし、「自分が本来いるべき場所」なんていうものも存在しない。それは、僕が幼いころを生き抜くために必要だった幻だ。僕は随分と長い間、この幻を追い求めていた。到達できるわけがないし、見つかるわけもない。

 

僕は部活動やサークル、同好会、会社、地域コミュニティといったものに適応することができなかった。できなかったというよりも自分を守るためにしようとしなかったのだ。いい部分よりも悪い部分、肯定する材料よりも否定する材料に注目して、ことごとく否定してきた。自分が否定しているものとうまくやっていけるわけがない。もしかしたら、僕の本心はうまくやっていきたいと感じていたのかもしれないが、無意識レベル、肉体レベルで刻印されているこの呪いがことごとくそれを妨げてきた。

 

否定は自分に跳ね返ってくる。「あの人、服のセンスないな」と感じたならば、僕はおしゃれな服を着るように努力するし、「あの人、知識が足りないな」と思ったならば、僕はその分野の勉強を始める。しかし、人間に与えられた時間や能力は有限だ。いくら努力したところで、自分が否定した周囲の人間たちを常に上回ることなど不可能である。

 

そうして、僕は自分自身を否定する。自分が否定したものを超えることができない自分を否定する。精神的自傷行為だ。

 

あるとき、僕は気がついた。

 

「どうして僕は今の自分の職場や自分を取り巻く人間を否定するのに、そのへんに生えている木とか、歩いてる野良猫を否定しないんだろう」

 

僕はそのへんに生えてる木や歩いてる野良猫を否定したことはない。それらよりも自分が優秀であることを証明しようとしたこともないし、それらをみて「ここは僕がいるべき場所ではない」と感じたこともない。あるがままのとおり受け入れ、積極的に肯定も否定もしない。

 

呪いを解くのは簡単ではなさそうだ。

 

村上春樹が書いた『海辺のカフカ』の主人公、田村カフカも、結果としてではあるが自分にかけられた呪いのとおりに行動してしまった。下敷きになったオイディプスの悲劇の主人公も自分の意思とは関係なく、呪われた運命どおりの行動をとってしまった。これら優れた文学が、呪いを解くことの難しさを示唆している。

 

しかし、人間の知恵は深遠で偉大である。

 

呪いを解く方法、しかも自分にあった方法がきっとあるに違いない。そうでなければ、人間はとっくの昔に絶望してしまって滅んでしまっていたのではないかと思う。

 

僕も周囲の存在を何から何まで否定しているわけではないし、全ての存在に対して優位に立とうとするわけでもない。そのあたりの要素を汲み取っていけば、僕にかけられた呪いの力も少しは弱くなっていくのではないか。

 

具体的な方法はまだみえない。それでも、何か見つかるかもしれないと思いながら生活していこうかと考えている。

人とつながることができる可能性について

久しぶりにブログを書いてみようと思った。

 

モノゴトが順調に進んで、日々の生活に満足していたら、文章を書こうというモチベーションはそれほど湧かないと思う。自分の中にある、よくわからないものにカタチを与えようとするとき、人はそれを言葉にしたり音楽にしたり絵にしたりする。

 

文学や哲学というものは基本的に敗者のものである。少なくとも僕はそう考える。

 

既存の社会制度に自分という存在をうまくはめこめないとき、自分という存在が激変する社会にフィットしなくなったとき、後悔を背負いながらそれでも生き続けなければいけないとき、人は考え始める。

 

「どうして、自分だけ?」「いったい、どうすればよかったのか」「これから、どうすればいいのか」

 

それらの疑問を、先人が遺してくれた作品を手がかりにして自分なりの答えにたどり着く。そして、それらは作品に結実する。

 

 

僕が大学生の頃、ラジオから流れてきた曲の歌詞にこういうのがあった。

 

「人と仲良くできない人 自分だけが特別な人 人となじめず苦しむ人 ストレスに悩まされる人 目を開けてごらん 顔をあげてごらん 春がきてるよ」

 

過剰な自意識と極端な自己否定は現実逃避というものの異なる二側面であって、その本質は同一である。現実が自分にとって耐え難いものである場合、取り得る選択肢はいくつかある。

 

逃げる。自分の殻に閉じこもる。そして、現実と戦う。

 

肉体的にも社会的にも非力な存在である子どもは、自分の殻に閉じこもるという選択肢をとりがちであると思う。自分の住む街を飛び出したところで、自分を受け入れてくれる場所は存在しない。僕は、競馬用の馬が移動中のトラックから逃げ出し、結局捕まってしまったという話を思い出す。彼は競馬という人間が用意した世界の中でしか生き続けることができない。自由を求めて逃げ出してみたところで、どこまでいっても彼が生きることができる世界に到達することはないのだ。そもそもそんな世界は存在しないのだから。

 

現実と戦うという選択肢もなかなかとりづらい。この選択肢をとるには勇気が必要だからだ。だから、チャップリンは言ったのだ。

 

「人生に必要なのは、勇気と想像力。そして、ほんの少しのお金」

 

 

自分の殻に閉じこもっていた少年は、年齢を重ね、青年へと成長する。そして、自分の生まれ育った街を飛び出す。

 

青年は本を読みながら考え続ける。自分を取り巻いていた大人や他人が持っていた基準は絶対的なものではないこと、彼ら彼女らが振りかざした常識は自らの内なる戦いの果てに勝ち取ったものではなく無反省に身につけたものであるということ、その無反省な常識を振りかざすことによって追い込まれたり傷ついたりする人間がいるということが想像できないこと、そして、なぜか自分は傷つけるよりも傷つけられる側に立つことが多かったということ。

 

青年は大人になる。そうして、彼は哲学者や文学者、知識人と呼ばれる人たちが頭がいいからそういう存在になったのではなく、自分と同じように社会を構成する大多数に自らを同化させることができない疎外された存在であったということ、「あのとき、こうしていればよかった」という悔恨を抱きながら生き続け、そして考え続けた結果、哲学や文学、評論を残したのだということに気が付く。

 

おそらく、キリスト教イスラム教、仏教といった世界宗教が今日まで残り続けたのも上記と無関係ではない。

 

自分が全く共感できず、それどころか嫌悪さえもよおす他人と、それでもつながることができる可能性はあるのだろうかと。

 

答えは「イエス」

 

そのためにはコトバの縛りから自由になる必要がある。なぜなら、コトバこそがこの世界に差別をもたらしているからだ。本来、世界は分割することなどできず、渾然一体となった一つのモノだ。コトバの束縛から開放され、この世界は一つなのだということを体験すること、それは「悟り」や「神秘体験」と呼ばれてきた。コトバの働きから自由になった、その境地に顕現する世界は「神」と呼ばれることもある。

 

禅の世界では、瞑想によってコトバによる差別体系の総体、秩序が支配する表層意識を離れ、仄暗い深層意識へと沈潜していき、コトバの発生以前まで遡ることによって「一」の世界に到達する。

 

一般的に、宗教の世界で厳しい肉体的な修行を続けるのも、表層意識の働きを弱め、コトバの支配する世界から脱し、「神秘体験」に到達することが目的であると思われる。

 

この次元に到達した人間には、この世界の差別はコトバによって生み出された「まやかし」であることがはっきりとわかっている。一切が、平等。コトバによって生み出された「まやかし」に過ぎない差別を、実在するものであるかのように感じてしまうことが苦しみを生み出す。

 

こういったわけで、多くの宗教書や哲学書に書かれている内容は一見、ワケが分からない。そりゃそうだ。だって、それらは、通常の言語活動が通用しない世界、コトバによって切り分けられていない世界のことを、通常の意識状態にある人間に通用する言葉で説明しようとしているから。

 

自分の殻を破るということ、それは自分を縛っているコトバの縛りから解放されるということだ。

 

さて、それではそのために人間は何ができるだろうか。何をしなければいけないだろうか。

 

もちろん、今から禅寺にいって座禅を組んで悟りをひらいたり、インドに行って過酷なヨガ修行の果てに神秘体験をするのも悪くない。ただ、僕は昔から、そういうのは何か違っているような気がしていた。普通に生活を送りながら、自分を縛り付けているコトバの毒を解毒する方法が、きっと存在するハズ。

 

そう思いながら、僕は明日のために眠りにつこうと思う。

孤独になる

一人ぼっちであることと、孤独であることは違うことだと僕は考える。

 

自分が信じる価値を追い求めるために、自らの意思で一人になること。それが孤独を選択するということだ。

 

孤独であることは、一般的には寂しいことのように思われているが、僕の経験からすると、孤独を選択したことによって逆に他人と深い話をすることができるようになったように感じている。自分の価値観に沿う仲間も見つかりやすい。孤独であることは、意外と騒がしいものなのだ。

 

ただ、自分自身も含めて、最後は自分一人の力で登り切らないといけない壁があることは全員承知している。だから、ある種の切なさ、ある種の悲しさをもって互いに了解している境界線が存在し、その領域に口を出したり手を出したりすることに気をつけている。

 

僕も一時期はその領域すら、意地をはってないで他人の力や知恵を借りて壁をこえていけばいいのではないかと思っていたが、やはり自分の力だけでどうにかしなければいけないものが絶対的にあるのだということが分かった。たまに僕はその領域を泣きそうになりながら這いずり回ることがあるが、一方、頭のどこかではこの泥臭いプロセスだけが自分に成長をもたらしてくれることも分かっているので、それほどつらくはなかったりする。

 

成長するためには奇策や効率のいい方法など存在しない。正攻法で地道に積み重ねる以外、方法はない。幸いというか何というか、僕には俗に言う才能というものがないらしいということが分かっているので、おとなしくこの泥臭いプロセスを踏むことができる。やめようやめようと思いながら、いつの間にか続いていたりする。

 

ただ、このような認識を持つためには、やはり近道を選ぼうとしたり、人の協力を得やすい方法を選択したりして、結局時間と労力を無駄にしてしまうという経験を積むことが必要なのかもしれない。その意味でも、主体性をもって行動するということは大切だと思う。人から言われたとおりに動いているだけでは、このような失敗の経験も蓄積されていかないからだ。

 

君に友達はいらない、というタイトルの本があったが僕もその通りだと思う。

焦燥感について

雪が降ってきた。

 

吸い込む空気は不純物がなく、清々しい。見慣れた街の風景はいつもよりくっきり見えるような気がする。

 

ビカビカしているパチコン屋。赤く点灯している信号機。傘をさしながら横断歩道を渡る人々。ビルの壁面にある、照明で照らされた広告。

 

僕は生まれてから高校を卒業するまで、冬になるとたくさんの雪が降る街で育った。今も雪国と呼ばれる街で暮らしているが、僕が生まれ育った街と比べると降る雪の量はかなり少ない。

 

僕が高校生のとき。大学受験をひかえていた僕は街の図書館で勉強することが多く、帰りはたいていバスで帰っていた。バスの停留所には雨よけのための庇がついていたが、横は壁で覆われておらず、寒い思いをしながらいまかいまかとバスが到着するのを待っていた。

 

しんしんと降り積もる雪。

 

水分をほとんど含まないその雪はふっくらと積もっていく。厚く積もった雪は吸音材のような役割を果たし、街の音は僕の鼓膜に届く前に聞こえなくなってしまう。そんな静かな冬の街で一人きりでバスを待っていると、僕以外の人間がいないように感じられるときがあった。

 

あのときの僕は、日常的に孤独感と焦燥感を抱えながら日々を過ごしていた。一人でバスを待っているときなどはその感覚がことさら強くなってもよさそうなものだが、僕の記憶はそれを否定している。

 

僕はある種の安堵感に浸っていたと思う。むしろ、街の音が聞こえたり人の気配がする場所にいたときの方が妙な孤独感や焦燥感に襲われていたような気がする。

 

話の焦点を絞ろう。今日は焦燥感について話してみる。

 

あの当時、僕はとても焦っていた。同世代の人間で、音楽やスポーツ、学問といった分野で人に認められるような成果を出している人間は、テレビや雑誌の中でいやというほど目にした。僕自身が憧れていた人たちのインタビューなどを読むと、当時の自分と同じくらいの年齢ですでに才能の片鱗をうかがわせるエピソードをもっている人が多かった。

 

僕には何もなかった。

 

高校が進学校だったため、学校自体は偏差値の高い大学へと進学するためのカリキュラムが組まれていたが、そもそも大学に行って何をするのか、大学に行く必要が果たしてあるのかというところでつまづいていた僕は受験勉強にエネルギーを注ぎ込むことはできなかった。

 

将来的には作家になりたいと考えていたので、古本屋から買ってきた本を読んでいたりはしていたが、さて、文章を書くという段になると冒頭の数行でさっそく行き詰まってしまい、作家になった人のエッセイなどを読むと、そのような人間は作家になる才能も資質もないからさっさとあきらめなさい、というようなことが書いてあり、「ああ、自分には才能がないのだ」と思ったりして文章を書くことを放棄してしまっていた。

 

自分にだけ備わっている特別な才能があるはずで、それさえ見つかれば何の苦労もなく目の覚めるような作品をつくることができ他人に認めてもらえるはず、と思い込んでいた僕はそれを見つけるために何をすればいいのかということを考え、思いつきで何かを実行してはすぐにやめてしまうという悪循環にはまりこんでいた。

 

結局、僕のこの傾向は二十代の終わり頃まで続いた。僕のこの傾向がそこまで長引いてしまった原因の一つに、他人とくらべる、という価値観があったと思う。例えば、文章を書いてみたとする。作家になったような人の中には、若い頃にひと月で原稿用紙千枚程度を書く人もいた。それとくらべると、わずか数行で書くことが尽きてしまうような人間に才能も資質もあるようには思えない、と考えてしまうこの思考回路が問題だ。

 

本当は、とりあえず数行書くことができた、内容のある文章をもっとたくさん書くために今の自分ができることは何なのか、と考えるべきで、他人と比較して書ける量も少ないし質も低いといって文章を書くことをやめてしまう、そのことが問題だったのだ。たとえ数枚しか書けなかったとしてもそれはそれで喜ぶべきなのだ。

 

「今現在の自分」以外の出発点は存在しない。どんなにレベルが低かろうが、どんなに稚拙だろうがそれを動かすことはできない。自分の理想に向かって何かに取り組もうとするときに、他人の出発点や到達点を持ち出してきて焦ったあげくの果てに取り組むことをやめてしまう。これではいつまでたっても何も始まらない。

 

このように焦燥感は、自分以外の何かと比較するところから生まれやすい。もっと言えば、「今の自分」を「昔の自分」や「未来の自分」と比較することでも発生する、と言えると思う。

 

意識を現在の自分に一点集中させることで焦燥感は払拭されるはずだ。何だか偉そうなことを言っているが、僕は今でもしょっちゅう焦燥感におそわれていて、そのたびに「今の自分以外どこからも始まらないのだ」と自分に言ってきかせ、自分ができることをとりあえずやる、ということを繰り返しているけれども。

 

雪がさきほどよりも強く降っている。街灯の光が降る雪を照らしており、そこ以外の雪は夜の暗さに紛れてしまってよく見えない。今住んでいる街では雑踏の音が完全に聞こえなくなるほどの雪が積もることはないと思う。だから、高校生の頃のように街にいながらにして一人だけになったような錯覚をおこすこともないだろう。

 

僕が感じていたような焦燥感を感じる人が一人でも減ることを祈っている。

夜明け前の青

僕のイメージを簡単にコトバで描き出してみよう。もしかしたら、何かが伝わるかもしれない。

 

 

平日の朝よりも少し早めの時間でセットした携帯電話のアラームがけたたましく鳴ってい る。

 

夢の世界から急速に引き離され、部屋の天井が目に入ってくる頃には自分がみていた夢の記憶はほとんどは失われてしまっている。ほんのわずかに残った夢の残滓も手のひらにおちた雪のように溶けていく。

 

とても寒い朝だ。

 

部屋の外の空気がピンと張りつめている様子が、カーテン越しの窓を通って伝わってくる。ベッドから出て冷たいフローリングの床に足をつけると、足の裏が急速に冷たくなっていく。僕は急いで靴下をはき、普段通勤のときに着ているダウンジャケットを羽織る。

 

キッチンにいき、一杯分の水をコーヒーカップにいれ、電気ケトルの中にあける。スイッチを入れて十秒くらいするとコォォォという音がし始め、一分経つか経たないかくらいでお湯が沸く。インスタントコーヒーの粉をカップにいれ、電気ケトルで沸かしたお湯をその中に 入れると、キッチンに立っている僕の周りにコーヒーの香りが広がる。

 

僕はコーヒーを持ってベランダに出る。朝の冷気が顔の頬や鼻、耳たぶや指先を冷やしていく。僕はコーヒーを飲みながら、街に響いている朝の音に注意を向ける。

 

電車が線路を通過していく音。自転車のさびついたブレーキを急に使ったときに出る、キィ という音。誰かが空き缶を蹴った音。

 

太陽がのぼる東の空はかすかに茜色に染まり始めているが、僕の頭のてっぺんにはまだ深い青色の空が広がっている。それでも、これから街が起きようとしている気配が徐々に強くなってきているのが分かる。僕の目の前にある、隣の家の木の葉っぱも、これから起こる朝の急激な温度変化によって湿り気を帯びるだろう。木の葉っぱだけではない。街の建物も一度露によって濡れ、それが燦々と輝く太陽の光によって蒸発していく様子を僕はありありと想像することができる。眠りから覚めようとしている街の気配が、僕の想像に確かな根拠を与えてくれているのだ。

 

東の空のオレンジ色がどんどん濃くなっている。コーヒーもぬるくなってきていることだし、僕は太陽が昇るのを見届けずに部屋の中に入ってストーブをつけるだろう。 僕の想像の中では太陽はとっくに昇っており、街の喧騒が耳に届いている。

 

-青は始まりの色

 

ある写真家が書いた本の中にのせられていたコトバだ。

 

空、空気、音、気配。

 

彼が言うように朝は全てが青い。これから起きようとするものは、一度青をまとわなければならない。青は冷たくもある。しかし、それも束の間のことで、あとは昇ってきた太陽が全て暖めてくれる。だから、これから何かを始めようとする人間は、青をまとう覚悟をしなければいけない。

 

青は冷たいだけではない。凜々しさや清々しさを与えてくれる色でもあるのだ。

自信をもつこと

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2014.11.29 撮影

 

 僕が子どものころに愛読していた漫画に『ドラえもん』がある。

 

大学生のときに廉価版の単行本のようなものがコンビニで売られていたので、懐かしさもあって買ってみたのだが、そこにこんな話がのせられていた。

 

ドラえもんがメスの猫に恋心を抱く。ドラえもんは自分の容姿に自信を持てないでいる。鏡を見ては落ち込み、告白しようとしては鉄のヤスリで自分の身体を削り出す。

 

そんなドラえもんを見たのび太が「自信をもて!」とハッパをかける。

 

「自信をもて!自分は世界一の猫型ロボットなのだと」

 

ドラえもんは自分が世界一とまでは言えないにしても、二番目か三番目くらいには優秀な猫型ロボットなのだと考え直し、何とかメスの猫に告白するところまでこぎつけ、最後には仲良くなって終わるという話だった。

 

多くの作品が自信を持つことの大切さを説いている。しかし、いずれの作品を見てもどうもしっくりこなかった。今思い出したドラえもんの話も、自信を持つことの大切さは分かるのだが、実際にどうやって自信をもてるところまでたどり着いたらいいのか、皆目不明だった。

 

今日は自信をもつということがどういうことなのか、僕なりの解釈をいつものように話してみようと思う。

 

闇に光がさす

僕は十代から二十代後半にかけて、自分の人生をどう舵取りしたらよいのか全く分からず、暗い闇の中で呆然としているような過ごし方をしていた。

 

他人に会うのも厭わしく、何をやるのもいやで、社会人になりたての頃は、休みの日を朝から晩までパチンコ屋で過ごすことが多かった。

 

何とか人生を過ごすことに欲を持とうと、女の子と一緒に飲み会をしたり遊びに行ったりすることもあったのだが、どうしても心の焦点をそのことに合わせることができず、気疲れして帰宅することも多かった。

 

そのうちに人とあまり話をしなくなり、他人と一緒に遊びに行ったり飲み会に出たりすることもしなくなった。そして、自分にとって一番しっくりくる、ゆっくりと本を読むということだけをする日々を続けた。

 

読んでいたのは難解な哲学書や宗教書、中国古典に関係する本が多く、文化人類学や文学も混ざっていたが、いずれの本も身近に読んでいる人は誰もいないということが共通していた。

 

内容はほとんど分からない。身近に聞くことができる人もいない。分からない単語を書きとって少しずつ慣れるようにする日々が何ヶ月か続いた。

 

そして、ある日突然、あれほど読むのに苦労していた文章が、何を言っているのか自分なりに理解できるようになったのだ。

 

それは文字どおり、闇に光がさすような体験だった。

 

他人には分からない

この闇に光がさすような体験は、他人からみるとあまり価値があるものではない。共感してもらうことも難しいだろう。

 

僕の場合、哲学書などの内容を理解できるようになったと言っても、他人に説明できるレベルではないし、そもそも、この時代に哲学や宗教関連の本を理解できたからといって、社会的有用性はゼロに等しい。

 

しかし、今の僕が、何とかこうして生きていることができるのは、このときの体験があったからだ。そうでなければ、相変わらず他人の顔色ばかりをうかがう、卑屈で何もしない人生を続けていたと思う。

 

他人には分からない、自分だけが分かること。

 

他の人には見えないが、自分にだけはしっかりと光がさしているのが見えること。

 

これが僕が体験した、自信をもつということだ。

 

今自分にできることを無理のないペースで続け、そしてやがて訪れる、他人には分からない、自分だけがはっきりと分かる、闇に光がさす瞬間。

 

他人に勝つということ

僕はできるとことといったら机の上の勉強だけ、といった人生を長い間過ごしていた。できるといっても田舎の中学校の上位くらいのレベルで、大学は地方の国立大学に通っていた。

 

そんな僕にも大学生の頃はまだ意地が残っていたらしく、自分の力を客観的に証明したい欲もあって難しい就職試験に挑戦してみた。

 

結果はめでたく合格。結構な倍率の中での合格だったので、いろいろな人から「すごいね」と言われることが多く、僕自身も素直に嬉しかった。

 

しかし、この何倍もの倍率をくぐって合格したという経験は、僕に他人に対するおかしな優越感を与えるのにこそ役に立った(?)が、苦しいときでもペースを乱さず、周囲の意見にあまり左右されずに淡々と物事に取り組むという意味での自信を与えてくれることはなかった。

 

他人との競争に勝つことによって自信を得ていく人もいるのだろうが、僕の場合はそうではなかったということだ。

 

続けることが大切

何ごとも続けることが大切だと思う。どんなに遅くてもどんなにレベルが低くてもいいから、そしていくらか休みながらでもいいから、とにかく自分の理想に関係する何かを続けてみるといい。きっと、光がさすような、視界が開ける瞬間がやってくるはずだ。

 

もし何かに取り組む気がしないなら、ただ理想を抱きながら生き続けるだけでもいいと思う。思ってるだけで行動しないのは意味がないという人もいるし、実際そのとおりだと僕も思うが、そうかといって無理に行動を起こして自分に負荷をかけるのはいかにも不健康で不自然だ。

 

毎日楽なことばかりではないし、つい卑怯なことをしてしまって自己嫌悪におそわれることもある。それでも、今はいろいろなことが楽しい。

 

癇癪を起こして人を傷つけたり自分を傷つけたりしなくて本当に良かったと思っている。